<観劇レポート>The end of company ジエン社「わたしたちはできない、をする。」

#芝居,#ジエン社

【ネタバレ分離】


観た芝居の感想です。

公演前情報

公演・観劇データ

団体名The end of company ジエン社
The end of companyジエン社 番外公演
『わたしたちはできない、をする。』
構成・演出山本健介
日時場所2020/02/15(土)~2020/02/16(日)
スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

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団体の紹介

劇団ホームページにはこんな紹介があります。

会社概要
2007年12月、早稲田大学を拠点に活動していた山本健介(作者本介)により活動開始。
劇団名の由来は、山本の主宰していた前身ユニットである「自作自演団ハッキネン」の「自作自演」と、「最後の集団」という意味の「ジエンド」から。
脱力と虚無、あるいは諦念といったテーマが作品の根底にあり、すでに敷かれている口語演劇の轍を「仕方なく踏む」というスタイルで初期作品を創作していたが、次第に、「同時多発の会話」や「寡黙による雄弁」といった、テキストを空間に配置・飽和・させる手法に遷移した。
作品の特徴としては、特異な対話やコミュニケーションを舞台上で展開するというものがある。

ジエン社 | The end of company

事前に分かるストーリーは?

こんな記載を見つけました

できないことを、できないままにしてしまって、
できると思っていたことは、どんどん遠ざかっていく。
一方で、それができてしまった時、わたしは、
できなかった頃のわたしに、二度と逢えないんだろうか。
× × ×
わたしたちはできない、をする。日々している。わたしたちはできない。できないのに、そこにいる。
できない人達による相互互助を目的としたこのセンターに、比較的年齢の若い人々が集まっていた。
仮にここを、「できない園」と名付けてみようか。

「できない園」は、本来は自由に居る事ができる。また本人の意志で、今すぐここから居なくなることもできる(基本的人権のため)。通いの人もいるが多くは住み込みで。自分のできなさを他の人に見せたり、見せなかったりしながら、そのできなさを、「できるようになる」か、「できなくてもいいようにする」か。
とにかく「この状態ではないよう」にするために集まり、ここにいる。

たとえば彼は、傘をさすことが出来ない。
たとえば彼女は、定食の小鉢を、バランスよく順番に、少しづつ、を食べる事が出来ない。
あそこにいるあの人は、歌を歌うことはできないが、『身内相手に米津玄師の歌を歌う』ことはできる、という。
そして遠くいるあの子は、彼氏が出来ない。彼氏が出来なくて、彼氏の作り方を尋ねたり、調べたり、ここで、毎日。そのうち、何もしなくなり、施設内でもっとも日の当たる、あの場所に、ただ居るようになった。

 今日はその場所に、佐藤君がいた。

「できるようになりましたか?」
「……ないです」
「ない?」
「ないです」
「できることが?」
「嘘、つく必要ないじゃないですか」

 わたしが担当している佐藤君は、よく「ないです」と言う。
(ちなみに佐藤と言うのもあだ名で、ここでは皆に特に名前を言う必要ないから。正直誰が誰だか、本当にその名前が正しいのかすら分からない。ハンドルネームみたいな奴もいる。なんたら帝国、とか)
 彼は、さまざまな事ができない。それを佐藤君自身は、わかっているのかどうか。彼を「複合型のできなさ」とも言う人がいるがそれ、誰が言っているんだか。

 わたしはそのできなさに対し、できるようにさせるような資格も技術もない。ただ週に一度、彼の話を聞き、報告書を作る。そして上の人……上の人って誰だ……? 誰にかわからないが、わたしの書いたレポートは、誰かに読まれる。
 だが、彼の話を聞くのは難しい。会う事だってできない事が多くて。何週か「面談実施せず」の報告が続き、そろそろ報告書をまとめたいと思っている。

「ないです」
何がないの?
「ないです」
それはなにが? できることが?

佐藤は不意に立ち上がり、わたしには出来ないような綺麗な早足で、日の当たる場所から去った。

待って。

声をかけようとするけど、それはできない。わたしにはできない人に、待てと命令する権限はない(基本的人権があるため)。

じゃあ、わたしはどうすれば、佐藤君から、佐藤じゃないかもしれない君から、話を。
なんの話を?

わたしは、佐藤君かもしれない人と話をすることが、まだできない。

観劇のきっかけ

チラシを見て気になっての観劇です。

ネタバレしない程度の情報

観劇日時・上演時間・価格

観劇日時2020年2月15日
17時00分〜
上演時間75分(途中休憩なし/回によって変動あり)
価格2500円 全席自由

チケット購入方法

劇団ホームページからのリンクで、CoRichiサイトで予約しました。
当日、受付でお金を払いました。

客層・客席の様子

男女比は6:4くらい。若い方が多い客席でした。

観劇初心者の方へ

安心して観る事が出来る芝居ですが、観劇初心者には、少し意図をつかみにくいかもしれません。

芝居を表すキーワード
・静か
・会話
・シンプル

観た直後のtweet

映像化の情報

情報はありません。

満足度

★★★★★
★★★★★

(2/5点満点)

CoRich「観てきた」に投稿している個人的な満足度。公演登録がない場合も、同じ尺度で満足度を表現しています。
ここから先はネタバレあり。
注意してください。

感想(ネタバレあり)

ストーリーは。事前に記載されているように「できない園」の人々。なにがしかの「出来なさ」・・・例えば名前が覚えられない・・・とかを抱える人々が集まった場所のお話。舞台には、客席と同じようなひな壇と、客席と同じような席の並び(間隔は客席よりも広め。)。客席と向かい合っている。そこに座るできない人々。演技の主体が常に入れ替わる。同じ役でも、途中でスイッチするように、たくさんの人が演じる。また、即興劇から創り上げたのか、セリフが判然としなかったり、同時並行で発せられたりする。そんな中で語られる、「できない園」の人々の生活と、「できない」エピソード。

役者さんたち、とても魅力的だった。曖昧な設定、曖昧な空間、曖昧な役所、曖昧な切り替わりの物語にも関わらず、全くよどむところなく演じるのは、とても印象的。特に、各々の表情の移ろいや、表情が言わんとしている事を推測するのが面白い。何だか世界を恨むようににらんでいたり、笑顔で彼氏が「できない」という人がいたり、いろいろな表情が見れるのは特に面白かった。役者さんの多彩さ、表情の豊かさ、という意味では、終始楽しめた観劇だった。配役・・・に当たる情報少ないので、どの役者さんがどの方なのか、判別が難しいのだけれども・・・、過去、どこかで見かけた方も何人かいたのに、名前を繋げられないのが残念。だだ、この公演形態なら仕方のない事とも思う。

舞台の内容については・・・いつも通り、パンフレット等の事前知識をなるべく入れずに、素のままの解釈してみる。

・・・何かを「できない」という事のコンプレックス的な感覚に対して、その人達を集めた仮想的な「園」で、だれしも「できない」事があるよね、・・・「できなさ」の普遍性・・・というような人間的な見方を提示している話、と、途中くらいまでは思っていた。ある種の障害に類するような「生きづらさ」の問題を、明示はされていないものの暗に、提示しているように考えた。・・・一方、物語の中盤からは「分からない」という事に問題がシフトし、芸術を「分からない」「分かろうとする」の話も出ていた。「できない」が、「理解できない」→「わからない」へシフトする。なんというか、この芝居そのものの「分かり難さ」と、それでも理解してほしい、という想いについて語っているような気もした。

なにも参照せずに全体を通して観て思ったのは、直感的にはあまり理解が出来なかったし、頑張って理解してみても、解釈の場所まで十分遠く、たどり着けてないな、と感じる点が大きかった。観念的すぎたように感じる。「意味」という名の、どデカい鉛の塊を、舞台の中央に出現させられて、どう反応したら良いのかな、と思った感覚だった。

もう少し捕捉の情報が欲しくて、パンフレットを読む。主宰の方のtweetなども流れてきたので、読む。のび太君などの例を引き合いに出しながら、「演劇が出来ない」という事を演劇にした、とある。なるほどなぁ。そういう事なのか、と、ほんの少しだけ、手がかりを得る。各々の「できない事」を手掛かりに、そもそも「演劇ができない」・・・というより「演劇が存在しない」という感覚を、表現したかったという事か。私が感じた「生きづらさ」というより、「存在の軽さ」あるいは逆に、喪失による「(演劇の)存在の重さ」のような問題だったのかなぁ、と気が付く。ただ、この理解でよいのか、という確信が全く持てないでいる。

この解釈の過程の基に思うに・・・、やはりこれだと、「演劇がない」「できない」という事は、上手く伝わっていないのではないか、という気持ちが大きくなってきた。解釈をここまで紐解かないと伝わってこないのが、根拠としては分かり易いかとは思う。端的にいえば、「演劇がない」という事を表現するにしたって、結局は演劇を選んでいる以上、「演劇の中で」やる、というパラドックスに挑むべきだったように感じるのだけれど、そのパラドックスをうまく整合したように感じなかった、という事なのだろう、と思った。

おそらく、作品自体実験的な要素が多いのだとは思うし、創り手はいろいろなタイプの上演を知ってこそたどり着いたんだと思う。けれど、「もっと演劇は豊かだし、それ信じてもいいんじゃね?」と軽~く、語りかけたくなってしまった。こと私に限っては、客席に座る以上、パラドックスを整合させた状態のモノを観たい。素直にそう感じた、という事かもしれない。

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