<観劇レポート>タテヨコ企画「誰かの町」
【ネタバレ分離】昨日観た芝居、 タテヨコ企画「誰 か の 町」の観劇レポートです。
もくじ
公演前情報
公演・観劇データ
項目 | データ |
---|---|
団体名 | タテヨコ企画 |
回 | タテヨコ企画 第 39 回公演 |
題 | 誰かの町 |
脚本 | 横田修 |
演出 | 横田修 |
日時場所 | 2021/03/24(水)~2021/03/28(日) 小劇場B1(東京都) |
団体の紹介
劇団ホームページにはこんな紹介があります。
1999年2月に横田修(作・演出・美術)と舘智子(俳優)の2人で結成。
2人の名前から【タテヨコ企画】と命名。
リアルな関係性に基づいた舞台表現を信条に、俳優のクセや空間の特性までを取り入れた芝居作りをしている。
過去の観劇
- 2019年03月20日タテヨコ企画 「三人の姉妹たち」
事前に分かるストーリーは?
こんな記載を見つけました
台は架空の地方都市。携帯電話もSNSもなかった時代。
とある商店街に暮らす人々のささやかな交流を描く。
ソーントン・ワイルダーの『わが町』をモチーフに、誰かの記憶の中にあるだろう町を立ち上げる。
ネタバレしない程度の情報
観劇日時・上演時間・価格
項目 | データ |
---|---|
観劇日時 | 2021年3月24日 19時30分〜 |
上演時間 | 130分(休憩10分含む) |
価格 | 3800円 全席指定 |
チケット購入方法
劇団ホームページからのリンクで、Webで予約しました。
当日、現金でお金を支払って、指定席券をもらいました。
客層・客席の様子
男女は5:5くらい。
様々な年齢層の方がいました。
観劇初心者の方へ
観劇初心者でも、安心して観る事が出来る芝居です。
・コミカル
・シリアス
・泣ける
・笑える
・会話劇
・考えさせる
観た直後のtweet
タテヨコ企画「誰かの町」130分休10含
ワイルダー「わが町」を下敷きに、設定を日本に置き換えた作品。原作に割と忠実感あり(うろ覚えだけど)。独特なコミカル面もあり。何気ない日常の尊さ。やっぱこの戯曲は強いなぁ、なんてことを思う。好き嫌い分かれそうな演出だけど私にはよかった。オススメ。 pic.twitter.com/7dLetU7I2t— てっくぱぱ (@from_techpapa) March 24, 2021
満足度
(4/5点満点)
CoRich「観てきた」に投稿している個人的な満足度。公演登録がない場合も、同じ尺度で満足度を表現しています。
感想(ネタバレあり)
ソーントン・ワイルダー「わが町」を下敷きに、日本に設定を置き換え、狂言回しの舞台監督役を劇団の話にアレンジした作品。舞台監督役は、劇団の男優が、劇作家の女性と共に、自らが生まれ育った町を写真と共に振り返る構造に変えられている。
ワイルダーの戯曲が好きで何度も読んでいるのに、まだ演劇での本格的な上演を観たことがない私。(以前、下北沢演劇祭で、下北沢にアレンジした「わが町」は観たことあるのだけれど)。家に帰って、久々に読み返してみると、記憶通り、かなりのやり取りが原作に忠実。登場人物の設定や、会話のやり取りは、そのまま抜き出したものを多く見つけられた。一方、原作ではどこか偉そうな舞台監督を、劇作家と俳優の男に変えて、日本に設定を置き換えた事で、凄くすんなりと理解しやすい「わが町」だった。日本のどこにでもありそうな、何の変哲もない町に生きる人の物語として観れた。その意味で、タイトルは「誰かの町」なのだろう。
主人公の周りをとりまく人々は、独特なコミカルさがある。このコミカルさは、劇団の雰囲気のようにも感じて、私自身は、笑うというより微笑ましい感覚で観れた。時にコミカル過ぎて、内輪ネタっぽく聞こえてしまう部分もあるので、魅せ方としては好みが分かれる所かな、とも思う。舞台全体に散らばる積み木のような舞台セットを、組んだり崩したりしながら、様々な時代・シーンを描く。小劇場B1だとちょっと狭そうだな、とは思う。「ウイッキーさん」「Jリーグ発足」なんて懐かしい言葉を交え、登場する人々も時に年齢を行き来しながら、時間の流れも描いていく。また、原作にはない、妻との死別を徐々に明らかにしていく設定で、「何気ない日常の大切さ」。そして、失ってしまったものへの哀愁を描く。
ラスト。原作では「聖者と詩人は、おそらく、時にいるだろう。」っていうセリフ(1990年の額田やえ子訳だと)。劇作家の女性は、基のセリフを「聖者」ではなくて「芸術家」っていう言葉に換えて言う(ここはすんなり納得。新訳だとこうなっているのかな)。しかも、ニュアンスが、少し茶化したように、ごまかすように言う。戯曲を読む限りは、カッコよくサラリと言い切るのを想像していたので、ちょっと驚いたのだけれど。でも、よくよく考えると、劇作家は「詩人」であり「芸術家」その人だから、原作の舞台監督が言うセリフのトーンとは、違って当たり前なのか、と気が付く。そもそもだれもが理解し難いものを、理解しえないという無力を前提で言うセリフだからこそ、あんなニュアンスになるのかな、というのを帰路に、思い直す。そう考えると、原作の舞台監督ってどうしてそんなに偉そうなのかなぁ、とか思って見たり。