こまばアゴラ劇場「高校演劇サミット2018」高校生をナメたらアカン。喰わず嫌わず一度は観てほしい。

#芝居,#高校演劇,#高校演劇サミット

高校演劇、侮るなかれ。喰わず嫌うなかれ。二度泣きました、私。



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どもっ\(´▽`*)。てっくぱぱです。
こまばアゴラ劇場 高校演劇サミット2018を観てきました。

高校演劇サミット2018

全国の高校演劇部の作品からよりすぐり

ホームページを見ると、こんな紹介があります。

高校演劇サミットは青年団演出部に所属する西村和宏、林成彦により、2010年12月に、アトリエ春風舎で第1回を開催しました。2013年度からは会場をこまばアゴラ劇場に移しました。2012年度に開催した「高校演劇サミット2012」からはプロデューサー林成彦とディレクター田中圭介の二人三脚の運営が続いています。大人の観客が高校演劇と出会う場を創出することを第一のねらいとしています。

との事ですが。全国の高校演劇部の作品から、選りすぐった3作を上演する企画。作品の間に45分の休憩を挟みながら、半日で3校の作品が上演されます。

今回の3校の舞台の感想を書いてみました。

公演データ

高校演劇サミット2018
期間 2018/12/27 (木) ~ 2018/12/29 (土)
劇場 こまばアゴラ劇場
上演作品
・盛岡市立高等学校演劇部「月面、着陸。」作:柳澤あゆみ
・東京都立世田谷総合高等学校演劇部「レイズ」 作:安達理々花+せたそー演劇部
・精華高等学校演劇部「大阪、ミナミの高校生3」作:オノマリコと精華高校演劇部

観劇データ

日時2018年12月28日 14時00分〜
価格3000円 一日通し券・全席自由(事前にネット予約)
「月面、着陸。」上演時間 60分(途中休憩なし)
「レイズ」 上演時間 60分(途中休憩なし)
「大阪、ミナミの高校生3」 上演時間 65分(途中休憩なし)

高校演劇サミット2018| 2018 – 2019プログラムこまばアゴラ劇場|公演案内|こまばアゴラ劇場

座席の様子

通常のアゴラ劇場の配席です。全席自由。
通し券は、一日を通して同じ席を確保可能。良い席で観たい方は、通しで観ることをお勧めします。
客席は、出演者の親御さんや、高校演劇関係者、出場校の先輩たちが観に来ているのが多かった気がしますが、私と同じように、舞台観るのが好きなんだろうなぁ、という方もチラホラ見かけました。
もちろん、観劇初心者の方にもお勧めする舞台です。
それと、精華高等学校の作品は「大阪、ミナミの高校生3」という事で、3作目のようだが、3だけ観ても全く問題なく話を理解できるのでご安心を。

舞台の感想

盛岡市立高等学校「月面、着陸。」

何よりもまず、脚本が秀逸。
天体の「月」と、平凡な高校生が、LINEを通して会話でつながる。突拍子もない設定が、気がつくと演技によって次第に実体化されてくる心地よさ。
天体とLINEするってどういうことだ?と、ちょっと変わったこの物語が、結末に向けて涙を誘うのは、その比喩に象徴された事柄が、巧みに世相を切り取っているからだろうと思う。
それは『人は孤独であるという事はいつの時代も変わらないのに、SNSで簡単につながる事が出来る世代。』あるいは『アポロ計画のような「人類共通の夢」を、持てなくなってしまった世代。』あるいは『どこか孤独を抱えながら、それでもネットで簡単に癒されてしまう世代。』あるいは、『個々の求める「アイドル」を、自ら追求できる、個の時代。』そして、それでも『人は何か目標に持って自立して歩む時に、成長をするのだという古からの事実。』
こんな現代の世相を「月とLINE」という設定が、うまく浮かび上がらせ表現している。後半、「まあ月とLINEしてもいいんじゃね」っていう妙な納得感を観客が持ってしまうのは、この巧みな比喩と世相が、しっかりとマッチしているからだろう。

そしてもちろん、その脚本を紡いでいく、役者たちの演技。作品が後半にさしかかるうえで、どうして涙があふれてくるのか、自分の中に確かな理由をさがせず、説明がつかなくて困った。
演者は皆、当然ながら粗削りな側面を持っている。要はみんな、普通の高校生だ。突出した、上手い役者さんが、スターとして引っ張っていた訳ではない。
だが、舞台の上の彼らは、同時にファンタジー上の人物でもある。現実とファンタジーの両者にしっかりと軸を立てて、それでも、リアルな「高校生」ならではの葛藤を、役にリンクさせながら、演じているのが伝わってくる。
よく役者を評するのに「役を生きる」なんて言葉を使う。観ていて思ったのは、生きるとは、こういう事をいうのではないか、ということ。結局のところそれは、セリフが上手いとか、演技の技術が高いとか、そういう事とはかけ離れたところにある。彼らか舞台の上で生きている様は、素朴ながら、非常に心を動かされる芝居だった。

東京都立世田谷総合高等学校「レイズ」

会話劇。終末を迎えつつある地球。その世界の片隅で暮らす、高校生達の、ある一時間を切り取ったもの。「今日、世界が終わる」という、本当なのかデマなのかよくわからない噂に翻弄されながら、仲間の誕生日の一日を過ごしていく。

おそらく「静かな演劇」の影響を色濃く受けていると思われる演出だった。

まず、そもそも高校生でこの高度な劇にトライしているのは、純粋に「すごい」と思う。また、一人一人がのびのびと、自然な演技している様には好感。舞台全体に敷き詰められた新聞紙が、実際の新聞紙なのか、比喩なのかはわからなかったが、効果的な舞台セットになっていた。ちょうど先日観た、KAATの「華氏451度」も、焚書の本を舞台一面に敷き詰めていく演出だったが、演者の底知れず明るい演技との対比で、終末、という雰囲気は存分に醸し出されていた。

物語。前半は、会話から漏れ出る描写。後半は、個々の個人に発生するイベント。その中で残念だったのは、特に前半で、個々のキャラクターや終末期の地球、「地球が終わる」という状況を、観る側に現実味を持った話として立体化させられていなかった点。
終末の中の断片の描写としては、例えば映画「クローバーフィールド」の一人称の視点を思い出す。異変が起きたとき、そこにいる「当事者」は事実を俯瞰できず、一体何が起こっているのか何も分からないという状況。この設定は、物語として魅力的だ。そしてこの映画でも、逃亡し逃げ惑う中で目にする「断片」の情報から、観ている側に「全体で何が起こっているのか」を想像させるに十分な内容が織り込まれていた。(その「断片の情報探し」がカルト的な人気も博したが)
今回の作品にも、観客としては同様のしかけを求めたい。演者たちから漏れ聞いて聞こえてくる会話の単語やニュアンスから、見る側が「どんな終末を迎えつつあるのか」を想像できる余地を与えなければ、観客が感情移入できず、成立が難しい。しかし、出てくる情報のベクトルかちぐはぐだったのか、不十分だったのか、私の中では「終末の地球」の像の焦点を、一点に結ぶことができなかった。
そのためなのか、後半、感情を、説明台詞のように説明していたように聞こえてしまって、残念。前半で、会話の中に「状況」をもっと作りこんで、後半の対立感情に持ち込めればよかったのかな、と思う。脚本を更に「レイズ」してみるといいかもしれないと思った。

精華高等学校「大阪、ミナミの高校生3」

観終わった後、こんなの観たことないなぁ、なんかスゴいもの観たかもしれない、と思ったが。上手く説明できず、理由の分からないうっすら涙とともに、口開けてポカーンとしてしまった、というのが正直なところ。帰路、頭をフル回転させて、振り返りながら思いついたこと。

前説でのマリアとマリーの説明だと、この作品は脚本家のオノマリコが、高校生・演劇部員にインタビューを取って作った芝居だという事だ。(事実かどうかは確認していないが) ふと思い出したのは、ミュージカル「コーラスライン」。役を獲得するために日々オーディションを受けるダンサーたちに、作者マイケル・ベネットがインタビューし、脚本に投影した記録が残っている。ダンサー達の物語は、オーディションの審査として断片的に語られる。そしてご存知の通り、ミュージカル全体として紡がれる物語は、重要なテーマを描いている。
この作品も、同様の構成だと考えると、合点がいく。高校生だけでなく人間なら誰もが持つ「将来への不安」と「友達」というキーワードを、高校生活を描いた断片的な内容から、見事に「醸し出していた」作品だったと思う。

決してテンポのいい作品ではない。独特のテンポで、大阪っぽい笑いも交えながら淡々と確実に描かれる高校生活。その中で出てくる、小さなエピソードの「点」。高校生活を描く「点」もあれば、突然クイズショー形式の「点」もある。共感もあり、反感もあり、41歳の私の視点からすると懐古もあり。その一つ一つの「点」が、まるで小魚の小骨のように、いちいちいちいち、チクチクチクチク、ノドに刺さる感覚。
例えば、演劇部じゃないクラスの友達。LINE交換はしていないけれど、親友だったという設定。30歳になって今何しているのか、いちばん気になるその人とは、友達である確信はあれど、連絡先は知らない・・・。この話は、個人的にものすごくリアリティがある設定だし、どこかチクチクして心に刺さる痛さがある。そして、チクチクする小骨たちが「30歳の自分」のシーンで一点に帰結する。主人公のローラは売れっ子作家に。そしてトムとの再会。このシーンでノド元に刺さっていたチクチクした骨が、一気に消化される。

「不安に負けるな」とか「友達は大事」とか、そんな奇麗事を言いたいんじゃない。今、生きていて、そこに存在する不安定な「何か」。手で触れてしまうと、すぐに化学変化して、別のものに変わってしまいそうな、不安定な「何か」。この芝居は、その「何か」を、手で触れることなく、切り取りたかったんじゃないか。その解釈が正しいとすると、その「何か」は実に絶妙に、切り取られていた作品だと思う。

オノマリコのインタビューを受けた高校生は、当然30歳を経験していないから、視点を持ちようがない。一方、大人になったオノマリコだけでは、高校生の持つ不安定さを、手を触れずに抽出することが出来ない。その「何か」の抽出を、正に合作の脚本の妙として、やり遂げている作品かもしれない。

作品の解釈について長々書いてしまったが、この表現をやってのけている高校生の役者さんたち。独独の世界を出すためには、テンポが早くてもだめだし、遅くてもだめ。家具みたいな演技も効果的だが、なかなか大変。その中で、表現できる「高校生の今」を、赤裸々に演じ、その演技が作品を厚みのあるものに仕立て上げている。素晴らしい演技だった。

「大阪、ミナミの高校生3」という事で、3作目のようだが、3だけ観ても全く問題なく話を理解できる。固定ファンあっての3作目、と聞く。1、2も観てみたい衝動にとらわれている。

高校演劇について

高校演劇を侮るなかれ

25年前、高校演劇をしていた身として言わせてもらうと、「高校演劇」って何故か大抵馬鹿にされる。芝居や演技に対して「高校演劇っぽい」とかいう感想を目にしたする。「稚拙だ」という意味なのだとは思うが、まったたく当たらない。企画しているプロデューサーの林成彦のコメントが、分かりやすい。

私は34歳で高校演劇と出会いました。高校演劇を知って、演劇観が大きく変わりました。世界が一気に広がりました。20代のころの私は観もしないで高校演劇をナメていました。そんな当時の私にこういうのを観せてやりたい。「高校演劇があるよ」と教えてやりたい。そんな思いで高校演劇サミットを続けています。今年も自信をもって、特に高校演劇をまだ知らないお客様のご来場をお待ちしています。

確かに、プロや"大人"の劇団に比べれば、演技は粗削りな事は多い。でも、若いからこそ表現できる事は、時に克明な表現として現れる。また、多かれ少なかれ、金を取ってする演劇は、小劇団の公演でさえ商業ナイズされるものだ。今回、入場料は必要なものの、商業化をするためではない演劇だ。そこに「ピュア」な作品が産まれる土壌がある。そういった要素は、今回の3作品を観れば、自ずと理解できると思う。

スター不在の妙

それと、もう一つ。今回の3つの学校。どの学校も「スター」が不在だったことが、個人的には好感を持てた。
役者なり脚本なりが、メチャクチャ上手で、将来プロとしてデビューするんじゃないかと思わせる「スター」のいる学校があったりする。そのカリスマに引っぱられて「優秀」と呼ばれる作品を作っているケースを、私が高校時代に何度か見た。もちろんそれ自体は悪いことではないけれど、自分の学校にはスターはいなかったし、表現としては何だか言いしれぬ「つまらなさ」を感じていた。
今回の3つの学校。ずば抜けて「あの人が上手い」と感じた人はいなかった。逆に、得られた感動は、チームワークで作り上げたモノだ。観たいものの「あるべき姿」を規定するのはナンセンスだとは理解しつつも、自分が「高校演劇」に求めているものの一つが、このチームワークではないか、と考えた。


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