<初日レポ>アマヤドリ「天国への登り方」安楽死の問題に、直球勝負を挑んだ作品

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どもっ\(´▽`*)。てっくぱぱです。昨日観た芝居の感想です。

公演前情報

公演・観劇データ

アマヤドリ 2019本公演
「天国への登り方」
脚本・演出 広田淳一
2019/01/24 (木) ~ 2019/01/27 (日) あうるすぽっと

観劇した日時 2019年1月24日 19時30分〜
価格 2500円 全席自由(事前にネット予約) 初日割
上演時間 125分(途中休憩なし)
Corich満足度 ★★★☆☆(3/5点満点)

客席の様子・観劇初心者の方へ

あうるすぽっと、初めての劇場だったのですが、小劇場小屋を想像していたら、公会堂のような劇場でした。びっくりしましたが、演劇が非常に観やすい舞台だったと思います。
ということもあり、初心者の方にもお勧めできます。
公会堂でしたが、一人で来ているお客さんが圧倒的に多かったように思います。アマヤドリ、初見の劇団でよく知らなかったのですが、公会堂を満席にできるくらいの人気劇団なのでしょうか。

アマヤドリ?

ホームページにはこんな説明がありました。

2001年に「ひょっとこ乱舞」として結成。2011年に「大爆破」と銘打って脱皮を遂げ、2012年に「アマヤドリ」へと改称して再スタートを切った。
現代口語から散文詩まで扱う「変幻自在の劇言語」と、共感性と個別化を主眼とした「自由自在の身体性」を活動の両輪とし、リズムとスピード・論理と情熱・悪意とアイロニー、とか、そういったものを縦横に駆使して「秩序立てられたカオス」としての舞台表現を追求している。

小劇場劇団だと思っていたのですが、行ってみたら公会堂。しかも満席。このスペースを満席にできる、人気のある劇団のようです。

事前に分かるストーリーは?

こちらもホームページに以下の説明がありました。

観光、安楽死、しがみつくことと手放すこと。

数年前、親父が大腸がんの手術をした。手術室へ向かう親父を見送ってから半日あまりを待合室で過ごし、ようやく呼ばれると、担当医が僕の前に立って、これが摘出した患部です、といって親父の一部だったものを提示してきた。ほー、大したものですねえ、とでも言えば良かったのか、何とコメントしてよいものかわからないうちに時は過ぎていったが、ぼんやりと、何かの準備が 必要になるんだろうということを思った。
どのみち、いつかは人は死ぬ。だから、死に方を思うことと生き方を思うことと、大きな違いはないんじゃないか。そんなわけで、望ましい死に方についての舞台を作って親父にもそれを観せてやろう、などと目論んでいたのだが、そうこうするうちに親父は死んでしまった。かくなる上は、そのことも含めた舞台にしてしまおう。僕は計画を変更することにした。
いよいよ団塊の世代が「後期高齢者」となるこれからの日本では、ますます多くの看取りの場面が演じられることになるだろう。今作では、望ましい死に方を売りにして、それを観光資源にして生きる糧にしてしまおう、というたくましい町を描いてみたい。死を想い、生を謳歌する。そんな明るい話になれば、と思っている。

ということで、何だか「死」を題材にした話のようです。

感想(ネタバレあり)

言葉をどんどん失ってしまう「言葉のガン」にかかっている妻が、突然「もう会えません」という手紙を残して失踪。日本で唯一安楽死を認められている「ホッキョ区」という所で、同じように死を望む姉と、安楽死を選ぶ。最後に一度話をしたい、と妻を追う夫。ホッキョ区で、医師や、安楽死を間近に控えた人、キツネたちとの出会いを通して、妻の安楽死について考える、というストーリー。安楽死という難しい問題に、直球勝負で挑んでいた作品。

もし「安楽死」について、これまでまったく考えたことがないという観客であれば、なぜ「安楽死」が議論を呼ぶのか非常に丁寧な説明があったので、この作品は心に響いたかもしれない。ただ、私に「安楽死」についての知識があったからなのか、安楽死に横たわる根深い問題を、非常に長い説明ゼリフとして聞かされてしまったような、バイオエシックス入門(生命倫理学)の教科書を朗読されているような、ロス著の「死の瞬間」を読み聞かされているような、そんなテンプレ意見の説明を聞かされている感覚に陥ってしまった。

「安楽死」を許すべきか、許さないべきか、という問題には、残念ながら誰もが納得する答えがない。「あなたが安楽死を支持しなくとも、他人については『選択の自由』として許すべきだ」という突き放した「自己責任」的な主張でさえ、「社会の美徳を守るうえで、その考えは許せない」という反論の余地があるほど、決定的な対立がある。しかも、どちらの主張に立とうとも、自らの立場に変化があれば・・・突然病気になる・・・などがあれば、その主張を変えることがあり得る問題だ。
中盤「サロン」のシーン。劇中の医師の会話を発端に、答えのない議論を長々とする場面が出てくる。観客に対して、知識のバックグラウンドをそろえる、という意味では、多少の説明も必要なのだろうが、気が付くと、対立を説明することが物語の筋になってしまっていて。このあたりが、説明ゼリフを聞かされている、と感じた要因だと思う。極端なことを言えば、「安楽死」という言葉を一度も出さなくたって、出てきている登場人物の物語として、この避けがたい対立を感情として表現する事だって出来るはず。「演劇」でこの問題を表現する以上、説明以上のモノが、求められるのではないのか。

舞台には、もっと深い物語を観たかったモチーフがたくさんあった。

カオルと里砂の関係。カオルが「病気の事、何で言ってくれなかったの?」と問う。言葉を操ることが出来なくなる病気を持つものに、なんと残酷な事を、しかも悪気なく言うのだろう。まるで、言葉を話せぬペットとのコミュニケーションをしているのではないか、とさえ見えてしまうように。しかも、カオルにはカオルなりの、切実な理由がある。ここに「死にたい」という願望と「死なないで」という願望は、決して交わることがないことが表れているけれど、いかんせん、描写が短すぎる。ケンカ別れした時のエピソードも軽い。もっと深く掘り下げられてたら、あのシーンの見方は、号泣を誘うほどに変わっていたんじゃないだろうか。

里砂と健人の関係。結局、二人そろって登場したのは、2回のみ。2度目のシーン、健人が、あまりにあっさりと彼女の死を受け入れてしまう。私にはどうしても『「安楽死」についての、いろいろな考え方の説明を受けたから、理解して受け入れました』という風に映ってしまう。手袋のやり取りは感動的だったけれど、あの結論に至るまでに、二人とも、相当の苦悩をしたはずだ。実際の安楽死の議論だって、説明されて頭が理解しても、心が理解できないから、対立を招くのに。その苦悩を、言葉が発せない里砂は爆発できない分、健人はもっと爆発できたんじゃないか。その旅を丁寧に描けば、説明なんてしなくても、自然と「安楽死」の問題が浮き彫りになったんじゃないか、と思ってしまう。・・・その点「言葉のガン」という架空の病気については、よくできたモチーフだったと思うが、生かされてないのが残念。(先日観た「BRIDGE × WORD」は、同じような病気をテーマにしていたが、コメディの中に、このあたりの切なさを、かなり突っ込んで上手く語っていたように思う。)

ルナール先生。カオルの結論通り「怖い」という印象がぬぐえない。極端な考え方の持ち主とはいえ、彼なりの論理がある。結局カオルが引き出すモノローグ的な説明だけになってしまっていたので、どこか「猟奇的な彼」止まりになってしまっていた。彼がどうしてそうなったのか。また、ホッキョ区が安楽死特区でなくなったら、彼はどうなってしまうのかなどに、私はとても興味があるのだが。

他にも、キツネや観光協会。もっともっと観たい物語がたくさんあったのに、、、、という思いだった。

舞台美術、安楽死に向かう車いすのシーンは、照明も含めてとてもきれいだった。一方、このホールは劇団にとって、横幅縦幅共に広すぎる印象を受ける。もっと小さなスペースで観たら印象が、変わっていたかもしない。

役者さんの中で、一人目の離せない人が。
安楽死間近のキツネ役を演じている、相葉るか。ラストのダンス以外は、終始車いすで演技。最初登場したところで、何か変だな、と思って。よ~く見ていたら、首から下を全く動かしていない。物語中詳細は語られなかったが、何らかの理由で、全身不随に近い状態になっているのだろう。私にとっては「安楽死事情」の説明シーンが長かったこともあり、首から上だけでの彼女の演技に目が離せなくなってしまった。死の受容のステージの「受容」にたどり着いていて、終始にこやかに自分の境遇を受け入れている様。観ていて迫るものがあった。・・・欲を言うなら「需要」ではなく「怒り」とか「取引」の状態で、首から上で「怒り」を露にする姿を観てみたかったが。

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