<観劇レポート>青年団「眠れない夜なんてない」
【ネタバレ分離】昨日観た芝居、 青年団「眠れない夜なんてない」の観劇レポートです。
もくじ
公演前情報
公演・観劇データ
項目 | データ |
---|---|
団体名 | 青年団 |
回 | 青年団第84回公演 |
題 | 眠れない夜なんてない |
脚本 | 平田オリザ |
演出 | 平田オリザ |
日時場所 | 2021/01/15(金)~2021/02/01(月) 吉祥寺シアター(東京都) |
団体の紹介
劇団ホームページにはこんな紹介があります。
青年団は平田オリザを中心に1982年に結成された劇団です。私たちは、平田オリザが提唱した「現代口語演劇理論」を通じて、新しい演劇様式を追求してきました。このまったく新しい演劇様式は、90年代以降のわが国の演劇シーンに大きな影響をあたえ、演劇界以外からも強い関心を集めてきました。
従来の日本演劇に対する平田の批判の中核は、西洋近代演劇の移入をもとに始まった日本の近代演劇は、戯曲の創作までもが、西洋的な論理で行われてきたのではないかという点にあります。このために、日本語を離れた無理な文体や論理構成が横行し、それにリアリティを持たせるために俳優の演技までが歪んだ形になってしまったと平田は考えてきました。
「ときには聞き取れないような小さい声でしゃべる」「複数の会話が同時に進行する」「役者が観客に背を向けてしゃべる」などが青年団の演劇様式の外見的な特徴であり、当初は、こういった点だけが強調して伝えられてきました。しかし、これらの特徴はすべて、これまでの演劇理論を批判的に見直し、日本語と、日本人の生活様式を起点に、いま一度、新たな言文一致の新鮮な劇言語を創造し、緻密で劇的な空間を再構成していこうという戦略にもとづくものです。青年団は、確固とした演劇理論にもとづいた舞台づくりのなかから、常に演劇の枠組みそのものを変えるような、新しい表現を創りあげていこうとしています。
また、青年団は、所属する演出家が、劇団内で不定形のユニットを作り、平田オリザが支配人を務める「こまばアゴラ劇場」を中心に、独自の企画を行う公演として、2002年度より「青年団リンク」を立ち上げました。企画、制作、広報などは、芸術監督平田オリザを中心に、本公演に準じる形で行われます。「青年団リンク」を通じて、青年団は、複数の演出家、劇作家、多数の俳優を有し、多彩な演目を観客に提供するという日本では珍しい「シアターカンパニー」を目指します。
近年は特に、その活動を海外に広げ、毎年のように海外ツアーを行ってきました。特にフランスでは、平田オリザ戯曲に対する評価の高まりと共に、青年団の演劇様式と、粒の揃った俳優の演技力が高い注目を集めています。
事前に分かるストーリーは?
こんな記載を見つけました
ここで生きるのではない、ここで死んでいくんだ。
マレーシアの日本人向けリゾート地を舞台に、
日本を離れて暮らす人々の生態を克明に描く。定年移住、新しい形のひきこもり、海外雄飛、日本離脱……
国際化の最先端か、新しい棄民か。
5年間の取材を経て大成した本作は、2008年初演以来、13年ぶりの初再演。1988年、マレーシアの架空の日本人用保養地。
定年移住をしてきた中高年の夫婦たち、父と母を久しぶりに訪ねてくる姉妹。
退職後の安住の地を探しに来る夫婦と、それを迎える高校時代の友人。
妙に明るい短期滞在者。娘と二人で暮らす寂しげな初老の男。
様々な人々がここに集い、静かな時間を過ごしていく。
熱帯のジャングルの中、聖域に住む蝶のように、死を待っている日本人たち。
思い出される長い長い過去と、思いを馳せる残り少ない未来。
リゾート施設のラウンジを舞台に、そこを通り過ぎていく人々の、
砂上の楼閣のような生活を淡々と映し出す。
観劇のきっかけ
この時間、中央線沿いでやっている演目を探して、の観劇です。
過去の観劇
- 2024年04月27日【観劇メモ】青年団 「銀河鉄道の夜」
- 2020年02月07日青年団「東京ノート・インターナショナルバージョン」
ネタバレしない程度の情報
観劇日時・上演時間・価格
項目 | データ |
---|---|
観劇日時 | 2021年1月25日 19時00分〜 |
上演時間 | 120分(途中休憩なし) |
価格 | 4000円 全席指定 |
チケット購入方法
青年団のホームページから予約、クレジットカード決済をしました。
当日受付で、チケットをもらいました。席はチケットをもらうまで指定できませんでした。
客層・客席の様子
男女比は7:3。40代upの人が目立ちました。
観劇初心者の方へ
観劇初心者でも、安心して観る事が出来る芝居です。
・会話劇
・シリアス
・笑える
・考えさせる
・シンプル
観た直後のtweet
青年団「眠れない夜なんてない」120分休無
静かに凄かった。オリザさんの芝居はどちらかというと苦手だけど、余白というか客の想像に任せてくる箇所を、しっかり受け止められた感覚。東京ノートとは違って俯瞰で見る事を許されてる気が。各々の悩み生い立ち感情が手にとるように分かった。超オススメ! pic.twitter.com/5eGYTHuCGx— てっくぱぱ (@from_techpapa) January 25, 2021
映像化の情報
情報はありません。
満足度
(5/5点満点)
CoRich「観てきた」に投稿している個人的な満足度。公演登録がない場合も、同じ尺度で満足度を表現しています。
感想(ネタバレあり)
マレーシアの定住者向けリゾート地。そこでの夕暮れ時の2時間を切り取った時間。観客は、その様子を傍目から、少し俯瞰的に眺めているだけなのに。そこに生きている人々の人生とか、想いとか、悩みとか、そんな事が頭の中を支配してきた。その世界の一部ではないのに、その世界にどっぷりと漬かった感覚。観ながら、舞台の上で展開されている以外の事を、いろんなことを考えた。そんな2時間だった。
たくさんの事を考えた。
考えた事を、ほんの少しだけ、メモしておくと。
昭和天皇崩御の折。病を患った健一が、何の病なのかは、具体的には明かされなかったように思うが。それでも、日本には帰りたくないという想い。昭和天皇より先に死んでたまるか、という想いがあったなんて考えもしなかった。シベリア、という言葉が一度だけ登場したけれど、そこから想像する壮絶な人生と、日本に帰ってからの馴染めなさ、違和感。冒頭、眠りこけている健一をどこかコミカルに見ていたのとは対照的な事に、ラストに気が付く。
明の知識の多さには驚かされる。そうだ、このころはスマホもインターネットもなかった。日常だけを見ると、それ程大きな差がある訳でもない過去。でも、やっぱり様式は大きく変わった。彼の知識の多さの背後に見え隠れする、戦地に駆り出され、銀輪部隊に配属された兄。妻を亡くしているからか、やはり彼も日本に帰りたくない理由を語らない。
千寿子の夫は、実際に各地に愛人を作っているんだろう。直枝をマレーシアに来させないためについた会話のようにも見えたけれど、おとなしいのに妙に人なつっこい会話と、夫誠司の雰囲気が、そんな背景をふと思い起こさせる。充との会話で、ほんの少しだけ見え隠れする、千寿子の学生時代。学校に行かない事を選べる時代ならよかった、と、直枝への嫌悪感と共に荒げる。そうだよな、この世代の人に、学校に行かない、っていう選択肢はむしろ、なかった。今が「自由で良い」社会なのか、「自由過ぎてダメな時代」なのか、そんな価値観で観ること自体がそもそも間違っているのか。登校拒否でアジアの国に「逃げて」来た充との比較で、そんな事を考えたりする。
デュッセルドルフを「西ドイツ」という健一の娘に、ふとドキッとする。ドイツじゃないんだよな。と、ファッションは、確かに90年代だったし。
昭和天皇のニュースで泣く、勇人。小説「こころ」の先生か、とか思ったり。
この後すぐに平成という時代が来るのだけれど。今の上皇(平成の天皇)が、この後、アジアの各国を慰霊のために訪問した、なんていう歴史は、この時点に生きる人は知る由もない。
・・・とにかく観ていて、この人はどこから来て、どこに行くのか、という事の想像をやめれない。その一言は、どういう想いをもとにして出た言葉なのか、とか。そんな事を考え出して止まらない。そんな作品だった。
この芝居とは別の視点になるけれど、最近たまたま、2000年代からアジアの国に住み着いた人々の手記を読んでいた。どの手記も、若くしてアジアの国に定着する事は、日本から「逃げる」という要素を持っている雰囲気が伝わってくる。健一や明はそれなりの歳のようだけれど、やはりどこか「日本から逃げる」要素が、充満している感覚もある。マレーシアの山の上での、何とも言えない気だるい感覚も、その手記と相まって、妙な現実味をもって感じられた。
平田オリザの芝居の特徴か、テーマ、みたいなものがしっかりとある訳では無いように思うが、意識を未来に、想いを飛ばすために、緻密に組み上げられた会話が、とにかく圧倒的。集中力がいるので、観ていてとても疲れた。時折、離婚記念の夫婦のやり取りで笑わせられたりもしたり。
当日パンフの平田オリザ挨拶を読むと、「昭和天皇崩御」という設定は再演で入れられたもののよう。むしろ、自分的には「昭和の最後」っていう設定があってこそ、この世界に入れたので、初演の時はどんなだったのだろうか、という事を思った。
私自身、平田オリザの芝居はどこか苦手だった。昨年観た「東京ノート・インターナショナルバージョン」も、ピンとこなかった。今回、食い入るほどにのめり込んだけれど、何が違ったのかな、特殊な作品なのだろうか、というのが気になった。「東京ノート」は近未来の架空の時間軸だから、共感できるようでいて実は共感する材料がない、その状況が原因だったのだろうか。あるいは視点の差だろうか。「東京ノート」は当事者の視点でみせる芝居だけれど、この芝居は俯瞰的な、少し上の視点から見せるような差があったようにも感じた(「東京ノート」では、様々な国の人にインタビューしていた中学生?がいたけれど、あの子の視点に近いところで物語を観ている感覚ではないか)。あるいはtwitterで感想を読んでいたら「今回は平田氏にしては分かりやすい」的な表現にも出会ったので、この作品が特殊な部類なのかもしれない。
いずれにしても、苦手な私にも、とても楽しめた作品だった。