【観劇レポ】KAAT「Mann ist Mann (マン イスト マン)」

#KAAT

【ネタバレ分離】
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どもっ\(´▽`*)。てっくぱぱです。昨日観た芝居の感想です。

公演前情報

公演・観劇データ

KAAT×まつもと市民芸術館 共同プロデュース
冬のカーニバルシリーズ Mann ist Mann (マン イスト マン)
原作 ベルトルト・ブレヒト
翻訳 小宮山智津子
脚色・演出:串田和美
企画監修 白井晃
2019/01/26 (土) ~ 2019/02/03 (日) 神奈川芸術劇場・大スタジオ
2019/02/08 (金) ~ 2019/02/13 (水) 信毎メディアガーデン1階ホール
2019/02/23 (土) ~ 2019/02/23 (土) ホクト文化ホール(長野県県民文化会館)
2019/02/27 (水) ~ 2019/02/27 (水) 長野県伊那文化会館・小ホール

観劇した日時2019年1月30日 19時00分〜
価格5400円 全席指定(事前に発券)
上演時間133分(途中休憩なし)
Corich満足度★★★☆☆(3/5点満点)

客席の様子・観劇初心者の方へ

シニア層が多かったと思います。
特定の役者さんの演技で、明らかに大げさな笑い声が聞こえたりもしたので、役者付のファンも多かったのかもしれません。
飲食可。S席は食事つきです。食べながら拍手出来るように、ブラボーバトン(鳴子みたいなやつ)が各席に置いてあります。ブーイングしたい人用に、「ブーイングホイッスル」を、開演前に100円で販売しています。
こんな感じの舞台ですので、初心者でも問題なく観劇出来ます。

KAAT?

最近お気に入りの、神奈川芸術劇場 KAATの公演。企画監修を白井晃、演出を串田和美。

事前に分かるストーリーは?

原作は、ブレヒトの喜劇という事ですが。KAATのホームページには、以下のように記載されています。

かつてインドがイギリスの植民地だった頃の英軍隊内の物語。
機関銃隊のジップ・ジェス・ポリイ・ユリアのお馬鹿な四人組はチベット征服に向かう途中、寺院で賽銭泥棒をはたらく。しかし、ジップが逃げ遅れてしまう。
点呼でジップがいないことが鬼軍曹フェアチャイルドにばれないように必死の三人。そんな三人の前に、酒保のおかみベグビックに胡瓜籠を運ばされているゲーリー・ゲイが通りかかる。人に頼まれたら断ることのできないお人よしのゲイをジップの代わりに仕立ててはみたものの…。
人間とは何か。笑いとユーモアの中で、アイデンティティをめぐる物語は、予想もできない方向へ進んでいく。

今回、前方席で食事をしながら観ることも出来るようで。この日の「お食事つき席」は既に完売だったのですが、何だか、後方の客席で「おいしいにおい」が漂ってくると、空腹だとちょっと辛くなりそうだなぁ、なんて思っています。

ここから先はネタバレあり。
注意してください。

感想(ネタバレあり)

ブレヒトの原作と思われるストーリーだけをまとめると。
魚を買いに出た男、ガーリック・ガイ。たまたま酒屋の女将の買い物に付き合わされ、気が付くと、ひょんなことからいなくなってしまった兵隊、ジンジャー・ギネスの代わりをすることになってしまう。そうこうしてるうちに始まる戦争。一時的な代わりのはずだった、ガーリック・ガイ。すぐにも戦争に行かなくてはいけないので、仲間から兵隊としての度胸試しをされるかのように、からかわれる。そしてガーリック・ガイの名前を捨てることに。ガーリック・ガイ」の名前を持つモノは、処刑され、彼の葬式にまで立ち会わされた、かつてのガーリック・ガイ。名前をジンジャー・ギネスと改め一皮むけたのか、戦争で大砲を打ちまくり活躍する。・・・強引にまとめるとこんな感じ。そして、このお話のさらにその外に、「マン・イスト・マン」というショーを、我々観客がキャバレーの客となって観劇する、劇中劇の構造。S席のお客は食事ができるし、客席は飲食自由、というのはその設定の一部。キャバレーのコック達が、ショーの練習をしている要素も加わる舞台。

ブレヒトの原作を読んでいるわけではないし、脚本に対する歴史的な解釈については、特に私としては興味がないので、あくまで昨晩観た舞台の感想としてだけ書いてみると・・・率直に言って、なぜ「キャバレー」スタイルの演出なのか、理解ができなかった。原作では、おそらく「キャバレー」というスタイル、劇中劇というスタイルは取られていないはずだ(未確認だけれど)。

話の一段外に「観る人」を設けるという事は、その多段構造を取る必然、みたいなものが必要だと思う。もし単に、「古い喜劇を楽しみながら観る」という構造、言い換えるなら、観客がブラボーバトンで拍手をする構造、を作りたかったのだとすると、客席の一体感を味わう事は出来るも、肝心なブレヒトの喜劇を、喜劇として扱う事を放棄してしまっているように感じる。この喜劇を現代で上演して、現代の客を笑わせるには、かなりの仕掛けが必要になるはずだ。しかし、その難しさを「共感」の要素ですり抜けてしまうと、喜劇の要素に対しては全然笑えないし、かつ「笑えない喜劇を見ている我々」という、かなり間抜けな構造が浮き彫りになって、その渦中にいることに気が付いてしまう。しかも悪いことに、劇中劇なのに、「外から見ている我々」を代表する役を演じている者は、この舞台の役としては登場してこない。そのため、観客が向かうべき感情の方向も収束しない。「つまんない喜劇を観て、何を思えというのか」、という疑問が止まらない。そんな劇中劇構造が、上演の2/3の時間くらい続く。このあたりで、結構眠い。

後半、「ガーリック・ガイ」が、自分の名前を捨てるところあたりから、話はかなり深刻味を帯びる。googleで少し検索してみると、ブレヒトのこの作品を社会的に研究した文章などが山のようにヒットするので、社会的な風刺を込めた喜劇だと想像する。喜劇の中での深刻さは、エッセンスとしては納得できる。卑近な例だが「ドン・キホーテ」の喜劇であり悲劇である側面、みたいなものを思い出した(ドン・キホーテの場合は、時代によって受け取られ方が異なる、という側面もあるが)。ガーリック・ガイが、結局は優秀な軍人になっていく・・・「んなアホな!」的な喜劇と、人の性はかくも簡単に変えられてしまうのかという怖さの「悲劇」。この両面をブレヒトは描きたかったのかな、と想像するのだが。その深刻なシーンでは「キャバレー」の外で観ている私たちの視点は、この作品から完全に消え去っている。前述する「客を代表する役」もいない。後半、終始照明の演出も多く、飲食をするのは容易ではない明かりの状態が続いた。そもそも、キャバレー要素消えてるじゃん、と思ってしまった。ここにきて、こんな深刻な話を「キャバレー」で食事しながら観て、どう楽しめ、というのだろうかと、思うようになってしまった。

幕切れで、これらの構造が回収されることもなく、終演。総じて、この「キャバレー」「飲食可」という仕組みが、何を意味しているのかよく分からない。料理を出す席を作ってみたかったとか、S席にして客単価を上げたかったのか、企画時に話題になっていたホリエモンのショーを真似てみた、とか、そんな間抜けな想像しか出てこず。辛い観劇体験となってしまった。

ブレヒトは当時、この作品を「喜劇」として上演したというのだが、実際、どのように喜劇化していたのだろうか。前半部分はもっとチャップリン的な「ドタバタ」なのだろうか。後半部分は「調子に乗り過ぎた男」的なノリで押し切ったのだろうか。キャバレーの枠組みを外して、そんな事を想像しているほうが、個人的には楽しめた。

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