<観劇レポート>ala Collection 「フートボールの時間」(感想追記済み)

#芝居,#ala Collection

【ネタバレ分離】ala Collection 「フートボールの時間」の観劇レポートです。

公演前情報

公演・観劇データ

項目データ
団体名(公財)可児市文化芸術振興財団
ala Collection シリーズ vol.14
フートボールの時間
脚本豊嶋了子、丸高演劇部
演出瀬戸山美咲
日時場所2023/10/26(木)~2023/11/01(水)
吉祥寺シアター(東京都)

CoRich 公演URL

団体の紹介

ホームページにはこんな紹介があります。

アーラの充実した施設群を活用し、キャスト・スタッフが1ヶ月半可児に滞在し演劇制作するこの企画。新作主義の日本演劇界における消費され続ける戯曲に対し、あえて過去の優れた戯曲に焦点を当て、リメイクして作品を再評価するプロジェクトです。

(公財)可児市文化芸術振興財団

事前に分かるストーリーは?

こんな記載を見つけました

私たちが見た夢 百年後、叶っていますか。

 大正時代に撮影された、はじける笑顔で女学生たちがボールを蹴っている写真。そこに写る女学生たちのドラマを丸亀高等学校演劇部が舞台化し、2018年の全国高等学校演劇大会で最優秀賞を受賞しました。その戯曲を今回は瀬戸山美咲が潤色・演出し、装いを新たに上演します。良妻賢母になることが女性の理想とされ、男尊女卑が当たり前だった大正時代。女学生たちのボールの先にはどんな景色が広がっているのか…これは時代の潮流に抗い、女性が活躍できる未来に夢をつなぐ物語です。

ネタバレしない程度の情報

観劇日時・上演時間・価格

項目データ
観劇日時2023年10月27日
19時00分〜
上演時間110分(途中休憩なし)
価格5000円 全席指定

観た直後のtweet

満足度

★★★★★
★★★★★

(2/5点満点)

CoRich「観てきた」に投稿している個人的な満足度。公演登録がない場合も、同じ尺度で満足度を表現しています。
ここから先はネタバレあり。
注意してください。

感想(ネタバレあり)

同タイトルの作品が、高校演劇の全国大会で上演され、最優秀賞を取り、NHKでテレビ放映されている。元作品の「潤色」という位置づけで上演されているので、原作者も許可しての(あるいは応援しての)作品であると思う。・・・ただ残念ながら、同じ背景の状況を基にした、全く別の作品だといっても良い。同タイトルでこの作品を発表する事は、元の作品の良さを完全に否定している。元作品のテレビ放送の録画を、繰り返し見ているファンの私にとっては、作品に対する冒涜であるように思う。

丸亀高校の過去「フートボール」の記録。・・・サッカーボールが女子の体育の授業で使われ、その後何らかの理由で全てのボールが破棄した記録の後、運動会で(破棄したはずの)フートボールを、一斉競技として実施する・・・。その破棄の記録と一斉競技の写真とが、辛うじて学校の記録として残っていて。いわば母校の「史実」から着想を得て書かれたのが、原作(とここでは表記する)の「フートボールの時間」。

テレビの録画を何度も見返しているが、確かにこの原作は不完全な部分が多い。記憶の穴埋めを、積極的には行っていない。主人公の女学生たちと、フートボールを推進した先生の視点に「のみ」焦点をあてて語られる物語。それは確かに「不完全な」物語ではあるのだけれど。

その不完全さはむしろ、当時の女性たちが、決して主役になれない、情報を遮断されている事実を表現していて、不完全であることがむしろリアリティを産み出している。校長先生が辞めた事。ボールを廃棄したはずなのにその後の運動会で「フートボール」が開催されている事。それらは全て謎だらけなのだが。その謎を、女学生の視点と推進した先生の視点のみで語り、しかもラストは21世紀まで飛んで問いかけをしてくる。いつまでたっても女性には断片的な事しか知らされない。そんな皮肉を込めた、でも観客に「脳内での想像」を迫るような物語なのだけれど。

今回の潤色では、むしろ、その謎に答えを与える形になっている。意地悪でウダウダ言う「ウダ先生」が、実はどんな事を考えていたのか、だったり。あの写真を撮ったのは女性のカメラマンだった・・・という設定だったり。この「潤色」の物語だけ単体で観たら、令和の現在でも、女性は主人公になったとは言えない事を表現する、それ自体は素晴らしい作品だと思う。でも、同名の物語なのに、単に「潤色」として種明かしてしまうと、元の物語の良さを完全に殺す。ウダ先生はウダ先生なりの視点があったとしても、女学生の視点からはやはり「ウダウダ言う先生」だったはずなのだと思うし、なぜ写真があるのかは、ボールを拾ってくれた用務員のおじさんの気まぐれなのかもしれないし。それが分からないことが、問題の根源なのだから。

原作のラストひとつ前のシーン。2人の女学生が涙を流しながらボールを蹴りあい、校歌を歌う。あの場所に込められているメッセージは、女性の地位の無さの悔しさと、それが何故だか分からない事への悲しさ。その悲しさを「潤色」の物語として取り払うなら、少なくとも「フートボールの時間 xx編」とても改名して上演すればいいのに。原作の設定を借りるだけ借りて、完全に原作の良さを潰した内容を「潤色」とする、そのセンスが腹立たしい。しかも、単体の物語として観ると、それはそれで成立している事が、尚の事腹立たしい。劇作家協会で要職に就く有名な作家らしいが、こんな恥かしい事良く出来たな、と思う。

その後知ったが、原作の作者も、この作品を支持しているようなので、私自身は「フートボールの時間」という作品は、もう何が真なのか分からない。こんな作品、無かったことするしかない、と思っている。カーテンコールを拒否して怒りに任せて退場した舞台は久しぶりだった。

最終更新日:2023年11月17日 0時08分 更新完了

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