<観劇レポート>劇団印象「エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜」

#芝居,#劇団印象

【ネタバレ分離】昨日観た芝居、 劇団印象-indian elephant-「エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜」の観劇レポートです。

公演前情報

公演・観劇データ

項目データ
団体名劇団印象-indian elephant-
劇団印象-indian elephant-第26回公演
エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜
脚本鈴木アツト
演出鈴木アツト
日時場所2020/12/09(水)~2020/12/13(日)
駅前劇場(東京都)

CoRich 公演URL

団体の紹介

劇団ホームページにはこんな紹介があります。

印象”と書いて“いんぞう”と読む、劇団印象-indian elephant-は、劇作家・演出家の鈴木アツトを中心に2003年に設立。
「遊びは国境を越える」という信念の元、“遊び”から生まれるイマジネーションによって、言葉や文化の壁を越えて楽しめる作品を創作し、観劇後、劇場を出た観客の生活や目に映る日常の景色の印象を変える舞台芸術の発信を目指している。
2010年より韓国演劇人との国際共同制作を開始。2012年、「匂衣(におい)」が、密陽夏公演芸術祝祭、居昌国際演劇祭に、「青鬼」がD.Festa(大学路小劇場祝祭)に招聘され、韓国で上演。また、タイの演劇人との交流も始まり、2014年、「匂衣(におい)」がBangkok Theatre Festivalに招聘され、バンコクで上演。

劇団印象-indian elephant-

事前に分かるストーリーは?

こんな記載を見つけました

抵抗と妥協。その狭間で揺れる、
若き表現者たちの群像劇。

新型コロナによる外出自粛期間に、「自宅にこもった芸術家は、外部世界へ向けて、何を表現できるのか?」を考えていた時、ドイツ国内での出版を11年間も禁じられ、“抵抗の作家”として知られるエーリヒ・ケストナーの生涯に興味を持った。

資料を調べていくと、ケストナーが、宣伝相ゲッべルスの依頼で、別名を使って、映画のシナリオを書いていたことを知った。また、彼の学生時代の友人の舞台俳優は、反ナチ活動を咎められ、ゲシュタポに虐殺されていた。別の友人は、あからさまなナチスのプロパガンダ映画を監督していた。つまり、ケストナーには、一方に抵抗して死んだ友人がいて、もう一方に妥協して生き残った友人がいたのだ。こういった友人たちに囲まれながら、ケストナーがどのように“ささやかな妥協”に至ったのかに焦点を当てた演劇を作りたいと考えた。

ファシズム(全体主義)的なものが再び跋扈(ばっこ)している現代に、芸術家と国家との距離感、そして、表現者の知性と勇気とは何かを問いたい。

エーリヒ・ケストナー(Erich Kästner 1899-1974)
ドイツの詩人、作家。ライプツィヒ大学の学生時代から、新聞社に勤め、劇評、エッセイ等を書く。1929年に『エーミールと探偵たち』の成功により、世界的な児童文学作家としての名声を得たが、やがてナチスによる圧迫を受ける。代表作に『飛ぶ教室』、『ふたりのロッテ』等。

観劇のきっかけ

ちらしと「エーリヒ・ケストナー」が気になって、の観劇です。

過去の観劇

ネタバレしない程度の情報

観劇日時・上演時間・価格

項目データ
観劇日時2020年12月9日
19時00分〜
上演時間135分(途中休憩なし)
価格3500円 全席指定

チケット購入方法

劇団のホームページからのリンクで、予約をしました。
当日、受付で現金で料金を支払いました。

客層・客席の様子

男女比は6:4くらい。
様々な年齢層の方がいましたが、40代upが目立ちました。

観劇初心者の方へ

観劇初心者でも、安心して観る事が出来る芝居です。

芝居を表すキーワード
・シリアス
・会話劇
・考えさせる

観た直後のtweet

映像化の情報

情報はありません。

満足度

★★★★★
★★★★★

(4/5点満点)

CoRich「観てきた」に投稿している個人的な満足度。公演登録がない場合も、同じ尺度で満足度を表現しています。
ここから先はネタバレあり。
注意してください。

感想(ネタバレあり)

第二次世界大戦の頃の話なのに、強烈に「今」を感じた芝居だった。

エーリッヒ・ケストナー。子供の頃、アニメ化された「ふたりのロッテ」が好きで、そこから原作や他作も読んで知ったドイツの作家。名前は知ってたけれど、生い立ちまでを、踏み込んで調べた事がなかった。1920年~1945年までの彼の半生を綴る事で見えてくる、第二次世界大戦のドイツと、ナチスと、芸術家の闘いの歴史。冒頭、カフェで出会う6人。8年おきぐらいのシーンを切り取りながら見せる、それぞれの人生の、そして人間関係の変化。このやり取り自体は、史実に基づいているかは定かではないけれど(おそらく異なる)、とても説得力がある。その中に見えてくる、芸術家と権力の構造。

芸術は、間違った方向に進む権力や政治と闘うべきだ、という主張は、物語を貫く通奏低音としてありつつも、そうある事の難しさ、危うさを、直球で描ているように感じた。女性が映画監督になるのが難しい時代。ナチスにすり寄って、プロパガンダを撮る事にキャリアの活路を見いだしたレニは、果たして悪者なのか。ケスナーの悩み、権力に抵抗する事は、娯楽作品を書くことをも否定されるのか。表現が娯楽を与えることは、ナチスの現実から目をそらさせる悪行なのか。あるいは、ヴェルナーのように、望んでいた映画監督の道が、むしろタイヤを売る仕事よりも「キツイ」仕事である事の皮肉。そんな人生の変化を描く。

観ながらふと、少し前に「表現は人を傷つけるべきではない」とツイートした人が、批判の嵐に晒されていた事を思い出した。私自身も「表現とは、そもそも人を傷つけるものだ」という立ち位置にいるので、このツイートには、失笑と、批判的なコメントをした気がする。いわゆる芸術表現に限らず、人間のありとあらゆる表現は、本質的に他人を傷つける危険をはらんでいると思う。ただ、一度放たれた表現は、誰を傷つけるかは制御できない。まして、芸術表現は、人々の新たな価値創造に根差しているべきなのに、それがナチスのようなファシストの手先になる事だってあり得るという事。

どんな時代でも、「表現する事の危うさ」は存在する。物語は、レニがコミュニティから追い出されるところで幕が下りるけれど、きっとこの問題に答えはない。表現が、た易くできるようになった、21世紀の前半の今。そんな悩み続けないといけない問題を、ケストナーの生き様から、さりげなく提示されているように感じた。ケストナーのセリフ「私は弱い作家だった」というのが、印象的だった。

芸術家が内に籠る時、何ができるのか、を起点にて書かれた物語、と、チラシのストーリー紹介に記載がある。観ていると、どういう訳か「コロナ」を連想させるのだけれど、当然1930年代の芝居にコロナなど一言も出てこない。何故そちらの方向に、観ている私の発想が行くのか不思議だったのだけれど、改めてチラシを読んでそこからの連想だった事に気が付いた。現在の、政治のきな臭い情勢に対しても、コロナ禍のこの時代にあっても、今観る事の意味を感じた芝居である事を感じた。

気になった役者さん。レニ役の今泉舞の印象が強烈だった。冒頭ダンサーとして登場して、ちょっと「チャラい」タイプの役かな、と思うのだけれど。終盤の境遇にあって、揺らぎながらも自分の信念と自負とを守り通そうとするレニ・リーフェンシュターの姿が、力強くとても美しかった。「生きてやる」と言ったレニは、現実世界では102歳まで生きていた。実際にどんな女性だったのか、調べてみたくなった。

あと、好きだった「ふたりのロッテ」は、「ルイーゼ」と「ロッテ」という二人の双子の女性が主人公だが。ケストナーの内縁の妻の名が「ルイーゼロッテ・エンダーレ」という名前だったのが驚いた。

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